――誓ったはずなのに。

 私は今、なにをしているんだろう? 薄い膜の内側に閉じこもり、自分のことだけを考え、
彼のことを悲しませている。
 クリスさん――今ではその名前も、はっきりと思い出していた。一度は、私の声によって
中断したフォルテールの音も、いつの間にか再開されている。
 視界に映るクリスさんの顔には、希望と、深い愛情が見て取れる。そしてそれは、鳴り響
くフォルテールの音にもはっきりと現れていた。
 その音が、顔が、絶望に染まってしまう前に、私はもう一度歌わなければならない。
「今日を……今を生きてる」
 ようやく私の口から出たのは、かすれた、歌ともいえないような小さな声でしかなかった。
 それでも、私の肉体と魂は喜びに震える。躍動するフォルテールの音も、それに応えるよ
うに輝きを増す。
「……日差しの、中で」

 私は、何度も何度も繰り返し歌った。途切れることもあったけど、それでも最後まで。フ
ォルテールの音が続けばまた最初から。
 身体は、元々歌うことを望んでいたし、心もまた、それを望んでいた。喉も身体もどうし
ようもないほど痛んだ。でも、溢れる幸せと愛の前には、どれほどの強制力ももたない。

 そして、私は今度こそ目を開けて、この世界を見た。
「……クリス……さん」
「……リセ?」
 フォルテールの音と違い、その声は弱々しい。確認することを怖れるように、小さかった。
 でも、私は聞き返したりせずに、もう一度名前を呼んだ。
「クリス……さん」
 部屋は、途端に静かになる。私は視線を彼に向け、泣いた。どうしてかわからず、それを
止めることもできなかった。もう幸せなのに。これ以上心配をかけさせるわけにはいかない
のに。
「……リセ? な、泣いてるの?」
 クリスさんもわかっているはずなのに、どうしてもそう訊ねずにはいられなかったみたい
だった。だから私は、痛む喉を無視し、流れ出る涙も無視して話しかける。
「……はい。でも、明日からは泣かないで済むと、思い……ます」
 今できる限りの、精一杯の笑顔を浮かべた。いや、浮かべたつもりになっただけか
もしれない。クリスさんは、それでも笑顔を浮かべはしなかったから。
「……本当に? 本当に……リセ?」
「思い、出しました。なにも……かも」
 途切れ途切れになってしまうけど、クリスさんは気にする様子もなく、ずっと私に
視線を注いでいる。
「こうして、ここにいる、理由も。……そして、こうして……ずっとここに、いるわ
けにはいかない……理由も」
 そう。だって私は、誓ったんだから。クリスさんを守らなくちゃならないって。
 今まではずっと、守られてきた。でも、そんな優しい嘘の世界から抜け出さなくて
はならなかった。そのためにクリスさんの力を借りなければならなかったのが、すご
く悔しいし、悲しい。
 それでも、きっとクリスさんは思っているだろう。今幸せだと。私を愛してくれて
いると。彼の奏でる音で、全てがわかった。
「……歌い、たいです」
「でもまだ……」
 ようやく、クリスさんは私のそばに寄った。いつも、朝と帰る間にしてくれている
ように、ベッドの端に腰を掛けて、頬にそっと触れてくれる。
 忘れていたわけじゃない。それを、私自身がずっと拒絶していただけなんだ。
「まだ、身体の具合が……」
「それでも、歌い……たいんです」
「……わかった。すぐに、弾くから」
「ありがとう、ございます」
 そして、ごめんなさい。
 その言葉はかろうじて飲み込んだ。きっとクリスさんは、そんなことを求めていな
い。それくらいに、私達はわかりあえていた。クリスさんも、私の拙い歌からなにか
を感じ取ってくれたに違いない。
 私から離れるときに一度だけキスをしてくれたから。
「じゃあ、弾くよ?」
「……はい」

 部屋に、音楽が満たされる。それ以外にはなにもなかった。
 あるのはフォルテールの音と歌声。居るのはクリスさんと私だけ。それこそがもっ
とも大事で、他にはなにもいらない。
 ただこの空間と、この時間とが愛おしくて、目の前にいるたった一人の人が愛おし
くて。私達は何時間も、そうしていた。
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